私はもともと宗教など信じておらず、物質論的な思想を持っていましたし、今も持っています。それにもかかわらず、かつてカトリック教徒と結婚していた過去があります。その経験から多くのことを学びました。カトリックの価値観や教会活動に関する独自の文化が、日常生活や人間関係に与える影響について考えてみたいと思います。特に、理想と現実のギャップや、社会的な負担について掘り下げてみます。
カトリック教徒の特徴とその影響
カトリック教徒には、一般的に「愛」や「許し」を重視する理想的な価値観があります。しかし、これらの理想が現実の厳しさにどれほど通じるのか、私には疑問でした。特に、次のような点が印象に残っています。
きれいごとの強調
カトリックの価値観では、感情や理想が優先されがちです。日常の中で愚痴や不満を言うことが許されず、「前向きに考えよう」という雰囲気が強く感じられました。このような文化では、ストレスをため込むことになり、自分の感情を表現することが難しくなりました。
女性の役割
教会では、女性が主体となって活動することが求められます。女性には無償の愛が求められるようでしたが、無償で愛を注げるのは子供くらいで、仕事も賃金をもらわないとモチベーションを保ち続けるのは古今東西不可能なことと同じで、無償の愛なんて基本的には存在しないのです。教会の役員になると、平日の役員会に参加するために仕事を休む必要がありました。これにより、仕事と教会の両立が非常に難しく感じられました。また、土日もミサに参加することで、休日が教会に縛られる感覚がありました。ミサの内容は歌を歌ったり、朗読を聞いたり(朗読の当番が回ってくる)、神父の話を聞いて、ご神体(パン)をもらって十字を切ることでした。
懺悔の部屋と現実
カトリック教会には懺悔の部屋があり、信者は自分の罪を告白することが期待されます。しかし、元夫が不倫をしたにもかかわらず、次のミサで懺悔の部屋に行かなかったことは、私にとって腑に落ちない出来事でした。このような現実の行動と、教会で求められる理想の間に大きなギャップを感じました。
愛や許しだけでは済まない現実
実際のところ、愛や許しだけで済まないのが世の中であり、机上の空論的な思想だと私は強く感じました。人間関係や日常生活の中では、様々な現実的な問題が絡んでおり、それに向き合うことが求められます。理想論だけでは解決できない現実があることを、私は痛感しました。また、きれいごとばかり垂れ流す人のことはペテン師だと思っていますし、私は信用しません。
経済的な負担
インフレが進む現代において、月に4000円程度の教会維持費は、家計にとって大きな負担となります。このような状況下で、経済的なプレッシャーを抱えながらも、教会活動に参加し続けることの難しさを実感しました。
理想と現実のバランス
カトリック教徒との結婚を通じて、理想と現実のギャップを強く感じることがありました。以下のような対策を考えることで、このギャップを埋めることができるかもしれません。
愚痴を言うことの重要性
時には愚痴を言うことも必要です。自分の感情を表現することで、ストレスを軽減し、健康的な人間関係を維持することができます。
コミュニケーションを重視する
パートナーとのコミュニケーションは、理想や期待を理解し合うために欠かせません。お互いの立場や感情を尊重しながら、より良い関係を築く努力が必要です。
自己肯定感を持つ
他者の期待に応えようとするあまり、自分の気持ちを抑えることは避けましょう。自己肯定感を持つことが、健康的な関係を築くためには不可欠です。
カトリック教徒と離婚して
そもそも離婚自体がカトリックの教義に反していますが、法律で認められているので離婚しました。私はカトリックの教えに賛同できませんが、洗礼を受けてしまったので厳密にいうとカトリック教徒のままです。なぜなら脱退などできないからです。しかし私はカトリック教徒ではないという信念を強く持ち、二度と教会に足を運ぶこともありません。アメリカに住む友人も、周りにカトリック教徒がいるけれど、アメリカ人も私と同じくカトリックの教えは時代に合わないのでやめたいという話をしているようです。
まとめ
カトリック教徒との結婚を通じて、理想と現実のギャップや教会活動に伴う負担を痛感しました。特に、元夫の懺悔の行動が教会の理念と乖離していたことや、愛や許しだけでは済まない現実を実感したことは、私にとって大きな衝撃でした。しかし、この経験を通じて学んだことは、理想を追求しつつも現実を受け入れる姿勢の大切さです。自分の感情を大切にし、より豊かな人生を築いていきたいと考えています。